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「心にぽっかりと穴が開いたような」という表現は、あながち比喩でもないのかもしれない。
失恋して、一ヶ月泣き暮らしたときだって、こんな気持ちにはならなかった。
本当に、胸に空洞が出来て、そこを風がすうすうと吹きすさぶような、
そんな思いをしたのは、これが初めてで、そのことに自分自身、大いに戸惑っている。
あのひと言は、わたしのささやかな夢が、小さな幸せの形が、脆くも崩れ去った瞬間だった。
悲しいけれど、わたしにはもう、どうすることもできない。
いつか、こうやって扉を開けて、光の向こうに行くことができるだろうか。
あの時は辛かったけど、それで良かったんだと思える日が来るだろうか。
今はとてもそんなこと、想像すらできない。

昨日は雨で、外に遊びに行けなかったせいであろう、
ここのところいつも朝寝坊気味だった息子が、今朝は六時前に起きてきて、
おはようの挨拶もなし(まあこれは普段もないのだけれど)に「お外!お外!お散歩!」と叫んだ。
仕方ないので眠い目をこすりつつ、七時過ぎには公園にいた我々親子。
犬を散歩させたりジョギングをしている人はいたけれど、
遊具で遊んでいるのは当然、わたしたちぐらいのものであった。
そして、この日は結局、朝、昼、夕方と、三回も公園に付き合わされた。
一歳児の体力、おそるべし、である。
子供の頃、何故だかまったく子供らしい遊びをしてこなかったわたしにとって、
外遊びが大好きな息子に付き合うのは、正直、なかなか辛い。
何をどうやって遊んでいいのか、分からないのだ。
しかし幸いにも、息子は教えなくとも遊び方を知っているようで、
次はこれ、その次はあれ、とわたしの手を引いては「遊ぼう」と誘う。
こんな場面ですら、わたしは子供に教えられているようだ。
写真は、息子の好きな遊具の一つ。
一番好きなのはおそらくブランコ。その次は滑り台か、シーソー。
アスレチックジムの梯子も悠々と登るし、高いところでの綱渡りも平気。
生まれてからまだ二年も経っていないのに、とつい感心してしまう。
男の子ってそんなものなのだろうか。

月日が経つのは実に早いもので、この町に越してきてから、もうすぐ丸二年になる。
知る者のほとんどいない新しい土地での生活は、慣れない子育ての期間とちょうど重なって、
なかなか辛いこともあったけれど、それでもなんとかやってこれたのは、
家族や新しく知り合った周りの人々のおかげであることはもちろんのこと、
この町自体の雰囲気によるところも、実は大きいのかもしれない、と思っている。
ただの古い、小さな町なのである。はっきり言って、何もない。
デパートも映画館もなければ、スタバもない。
それでも、この町をぐるりと散歩をすることは、毎日の日課なのに未だに飽きないのだから、
わたしはとてもここを気に入っているのだと思う。
木組みの家、カラフルな壁、かわいらしい窓・・・そういったものたちは、
出会ってから二年経ってもなお、わたしの心をくすぐるようだ。
写真は、そんなわたしのお気に入りのひとつ。
くすんだブルーの色味とくり抜かれた形が何ともいえない、と言っては、
用もないのについ、この道を選んで通ってしまうのだった。

うちの息子は男の子の割に、かなりのおしゃべり好きのようで、
寝ているときと食べているとき以外は、ひたすら何らかの言葉を発している。
一歳を過ぎてから、毎日少しずつ覚えた言葉を、決して忘れまいとするかのように、
目に入った物で、その名称を知っている物であれば、必ず指を差しながら大きな声を出す。
わたしのドイツ語よりもはるかに、二歳にもならない彼の日本語の上達は凄まじい。
先日も散歩中、空を見上げて「飛行機!」と叫んだ。
本当かしらと思いつつ、空を見上げたが飛行機は見当たらない。
なんだ、とがっかりしていたら、それでも息子は「飛行機!」とうるさい。
仕方なくもう一度、よくよく目を凝らしてみたら、本当に米粒より小さく見える飛行機が、
遠く青い空を飛んでいるのが、ようやくわたしにも見えた。
ごめんね、飛行機、ちゃんと飛んでるね、そう答えると、彼は満足げに笑っていた。
侮ってはいけないのだ、と改めて思わされる。
一つすごいなと思うのは、同じものでも様々な名称があることを理解している、ということ。
例えば、「自動車」と「車」と「ブーブー」は同じものであるということは分かっているし、
「ありがとう」と「ダンケシェーン」が両方とも、感謝の気持ちを表すときの言葉だという意識はあるらしい。
わたしだったら混乱してしまいそうだが、今のところ、難なくこなしているようである。
頭が柔らかい、とはこういうことを言うのだろうか。
写真の二輪車を見て、彼が「オートバイ!」と喜んだのは言うまでもない。
「バイク!」のこともあるが、彼がその二つの単語をどう使い分けているのかは、
今のところわたしにはまだ、解明できていないのだった。

忙しく手や足を動かしている時というのは、意外とあれやこれやと思いをめぐらせたりしないものだ。
だからそんなときは、悩みもしないし、落ち込みもしない。
人が、辛いことがあると何かに没頭してしまうのは、そのせいかもしれない。
わたしの場合は、家にいるときが一番慌しい。
子供の世話に追われて、確かに大変なときもあるのだけれど、
でもそのおかげで、余計な考えごとをしなくてすむのだとしたら、
次から次へと仕事を増やしてくれる息子には、感謝すべきなのだろうか。
ベビーカーを押して、散歩に出掛けるときが、わたしのしばしの休息時間。
・・・のはずなのだが、歩いているとどうもいけない。
普段の、何も考えなかったあいだの時間を取り戻すかのように、
封じていた様々な思いが頭の中を渦巻いて、とても苦しくなる。
ふと見ると、通りの両側にずらりと並んだ
花壇が目に入ってほっとする。
わたしの悩みなんて、こんな小さな
花に慰められるくらいの、ほんの小さなものなのかもしれない。